昭和42年01月27日 朝の御理解



 金光大神のお取次によっておかげを頂くという、金光大神のお取次によって安心の大みかげを頂く。同じ様な事ですけども、皆さん大変違うでしょう。金光大神のお取次によっておかげを頂くと。金光大神のお取次によって安心のおかげを頂くと。誰でも始めの間は金光大神のお取次によっておかげを頂く事、そこからご信用を頂いていく人がまぁ、殆どでございます。
 けれどもそれが、三年五年もいや十年も一生も、只それだけで終わってしまう人があるという事は、本当に惜しい事であり、金光大神もそれではお寂しい事であろうと私は思う。皆さんの方はどげな風になっとりますでしょうが、皆さんの手元のところは。金光大神のお取次によっておかげを受ける。又そのそこんところに一生懸命なっておる。四神様の御理解の中に、氏子が泣いて助けて下さいという氏子は多いけれども。
 、泣いてどうぞ改まらして下さい、信心を分からして下さいという氏子が少ないと言うてあります。どうぞこの場んところを、どうぞ助けて下さいと言うて、泣いて願い頼む者は多いけれども、どうぞ信心を分からして下さい、改まらして下さいと言うて泣いて願う者が少ないとこう仰る。私、今朝、ご神前に出らせて頂いた、始めに頂きます事がね、この末広ですね、扇子です、扇子を頂くんです。
 ところがよくよく見ると、この肝心要の要のところが、抜けておるというお知らせでした。これは、まぁ私の事でもあろうかと思ったと同時に、私、今朝御理解だと、こう思うてから、その事を聞いてもらう訳です。お取次を頂いて、おかげを頂いたというのは、丁度です。肝心要の末広におかげは頂いておっても、肝心要の要が、抜けておる様なものだと私は思います。
 どうでも皆さん、も、その肝心要のところが大事にせにゃ、それを最近お道では手元のところをと言うておられますですね。自分の手元のところを大事にせよとこう仰る。自分の足元のところを大事にせよと。それをもう少し煎じ詰めると、自分の心のところを大事にせよとこう仰る。昨日、一昨日、熊本県の多良木というところ、熊本市からまた四時間も自動車で走らんならんという程に辺ぴな所らしいです。
 球磨川の上流の近所ですね。以前にもう参って見えよったお医者さんなんです。ある私は本当に思いましたですねぇ、その熱心に参ってきよんなさったんです。そしたらその参ってきなさらん様になったから、どうしてじゃろうかと私が言いよったら、誰からかでした、まだ久保山さん達が居る時分だったでしょうか。それを又聞きに、私は聞いたんですけども。あちらの先生、椛目にお参りしよんなはった。
 そしたら椛目の先生が信者さんから足袋をはかせて貰いよんなさった。それを見たんです。いくらお徳があるとか偉いとかち言うたっちゃ、信者に足袋はかせるごたる先生とこには俺は参らんち言うてから参らじゃったとこういう訳なんです。本当にあの心掛けなければならない事だと思うですね。やっぱり私の態度の中に、その何と申しましょうかね、その無礼な姿神様の前に、又は横着な風が見えたのでございましょうねぇ。
 という事を聞いたんですけども、本当にやっぱ、それっきり参ってこられませんでした。ところがもう、三年にもなりますでしょう。三年振り位でしょう、参って見えられた。あれから色々迷いましてね、もう本当に色々迷いましてから、その何て言うでしょうかね、山で十幾つ位な時から修行をして、そしてその千里眼的に色んなことがどんどん分らっしゃるという人の所に参る様になった。
 ところがですね、ところがところがその、まぁ大変な問題が起きておる訳なんです。本当に男泣きに泣いてから此処でお届けをされましたけどもねぇ。いよいよ椛目の先生にお縋りする他なかと思うて、実はあんまり長くご無礼しておりますから、敷居が高いですけれどもと言うて参って見えられました。話を聞けば聞く程に、ほー本当になるほど色々な事を教えてはもらったんです。
 いうなら奥さんがちょっとノイローゼ気味になられましてですね、精神病院に入院されるという様なことになっとる。ところがその精神病院に見せても、はかばかしくないから、そのところに参ってから、二年間位かかってですね、その当人さんのいわばおかげで助かったとこう言うのです。ところが実は、その助かったことがです、難儀の元になっておるというのが、お願いのことでございました。
 不思議な事ですね、おかげを頂いて助かった。助かった事がです、もう私がもう本当に、死ぬか生きるかと、いった様なですね、かというごたる、大きな問題になってきておるという事。そりゃもうお話を聞くと、もう本当に、言葉にも出されんごたる問題なんです。ですからあの結局、そういう様なのを信心だと、思うておるということがです。そのま、いうとですね、
 そこの先生が奥さんが例えば入院しとんなさる間に、その間だけいわば品もんのごたる、使うときなさいち言うてから、その自分方の信者さんば後家さんにその世話しなさったという事ですから。ところがいよいよねんごろになられましてから、年は自分の半分年ち言う様な人。それでも奥さんより、そっちの方が良うなっとんなさる訳です。ですから、ま、本当に様々な先生があるもんじゃあると思いますですね。
 それで も、いよいよ今度は、奥さんが帰ってきなさってから、それを知んなさったもんだけんで、石油かぶって火つけるちいうごたるこつまで、まぁそれが大事に至らなかったらしいですけれども。様々な大変な問題が次々と起きておる訳です。いよいよこれは本当の信心に目覚めて、いわゆる自分は金光様の信心を頂いておってから、これは椛目にご無礼しとるから。
 とにかくその、指示を仰ごう、教えて頂こうというてまぁ参って見えたんです。例え、よしおかげは受けましてもです、肝心要のところが分かっていなかったら、頂いていなかったら、そういう結果にすらなりかねないのですよ。そんならそれを私は、そのなんか知らんけれどもです。お道の信心を頂いておっても肝心要のところを頂かずしておかげだけにもし終止しておったらもう五十歩百歩です。
 ○○という宗教は、本当におかしな宗教だと、おかしな神様だ仏様だと言われても、だから仕方がないです。おかげを受けて、いよいよ、そのおかげがおかげの花になって、本当に、こんなに有難い事はない。こんなに有難い事はないと。こんな有難い信心を頂いて、こんなに有難い事はないという、言えれる、いわば信心を頂いていかなければならんけれど。おかげを受けた為に、かえって困った結果になっていくという様な信心であったら、これは私は、本当に困った事だと思うんですけども。
 お道の信心でそういう事がないかというと、それはないとは言えないのです。肝心要のところには、一つも力を入れず、いわゆる手元のところには一つも思いを置かずに、只おかげの事だけを願っておかげをよし頂いて、それが扇子がこう末広に広がった様に見えておっても、肝心要のそれが抜けておったら、これは広がったが広がったにならんのです。本当に皆さん、よくよく金光様の様な信心は素晴らしい信心はないと。
 私の叔母が先日亡くなりましてね、それに母が翌日お夢を頂いて、二日間続けて頂いてる。そのお夢が、お善哉をその二杯も頂いてから、本当に有難い、こげん有難いことはなかと言うて、その、母の所にお礼に来て。あくる日は本当に先生のお徳で、私共まで、おかげを頂いてから有難いと言うて、お礼に来たというお夢を頂いております。本当に信心が手篤う出来た訳ではないですけども。
 やっぱり中には金光様のご信心を頂いて、本当にいうなら実意な人でした。それがどういうことじゃろか、善哉を二杯も頂いてから有難いと言うのはどういう意味だろかと言うてからその、言いよったんです。それからその事を私、お届けさしてもらいましたらね、ぜんざいぜんざいという事であったんです。ぜんざいとは良いかな(善哉)良いかな(善哉)と書いてございますよね。
 あの芝居なんかご覧になる、つぼさか霊験記というのがありましょうが。座頭さんが目が開くという、あのお芝居なんです。あん時お観音さんがこう現れよんなさってですね、お観音様の台詞がありますよ。善哉善哉、夢々疑う事なかれという様に。それはそれなんです。良いかな良いかなと、こんな有難い事はない。本当にこんな有難い事はないという意味なのですよ。
 これは、余談ですけども、昔から一人の人が 法門に、いわゆるお坊さんになられますとですね。その七ツの繋がりの親戚縁者の者が助かると言われるくらいだそうですね。はじめて、やっぱり、私共がこうやって人の取次助けさせて頂ける様な御用に使うて頂いておるということが、やっぱり私の信者縁者という人達がですね、助かることも又、合点が行くと思うのでございますけれどもです。
 問題はその善哉善哉と、そのそれが本当におかげ頂いてこんなに有難い、おかげを受けて、こんなに有難いことはないとこうその、おかげが繋がって行くと言うおかげでなからなければ、駄目だと言う事。それにはです、私は多良木の○○宗じゃないですけどもです。なるほどそれは大変な信者さんがおられましてですねぇ。やっぱ大変助かったそうですよ。ところがまぁだ四十才位らしいですけどもね。
 なんか中風状態になられてから、仏様拝まれる事が出来なくなった。人におかげをして行く事が出来なくなった。そしたら誰ーれもお参りならんごとなって、最近ではその生活補助を受けておられると言う。だからその霊徳といった様なのは、あんまり当てにならん事が良く分かりますですね。神様からお知らせを頂いたとか。その人のいわば千里先の事が分かるといった様な事ではつまらんという事。
 どこまでも私は、教えを元にした生活。そしてそこに人の信用がつき、神様のご信用がついていくという信心にならなければ駄目だと。自分の事を誰ーれも分かりません、悪くいうてくれる人もありません。皆が自分の事はまぁ良か人と思うてくれとるだろうと。自分は本当に、親切な人と思ってくれておるだろうと。はぁあの人は信心しなさるけん違うと思うてくれておるだろうと思うておるだけじゃいかんです。
 蔭ではどういう事を言われよるか解らんです。成程信心しなさるけん違うと言うてその、信心を基にしてからのおかげでなからなければですね。夕べの御理解を頂いとりますとですね、神徳を得よ人徳を受けよと仰るが、その普通人徳を受けるという事はですね、人徳を受けていく為に、清貧に甘んじておらなければならんといった様な方が沢山ありますですね。ほりゃもう自分の財産を打ちぶってからでも人の難儀を助ける。
 自分な何時も貧乏しとる、それで人徳がついてくる。これじゃつまらんて、やっぱり、神徳を得よというところが大事。いうならば信心をして教えを身につけて、教えに基ずいた生き方有り方にならせて頂くから、人の信用がつくというものであったら天地が保証すると仰るです。昨日、ある方がですね、この方は家別れする時には、いうなら気の毒な分れ方をしました。それでも大きな事業を始めました。
 そん時に日田の方に山を買いました、それがおかげを頂いてから七~八年の後でしたか、大変なその値上りになりましてですね。そのおかげで事業を思い立つ事がでけました。最近は又ある山を買いまして、ところが、それがその石が大変出る山なんです。ところがある大きなその何億という金をかけて、そこんところを山を買い取ったんです。ところがその人がこんだ去年、去年でした。
 お届けをして買わしてもらいましたが、その中心がその人が持っとる山なんです。だからどうでもこうでもこの山がなからにゃ困るから、どうでもこれを売ってくれ。でなかったら株主になってくれといってきた。これなんかもう私が、これは私が申します。この人が本当にこのまま研かれていったら、この人こそなるほど神徳人徳を受けていく人であろうと。そら町の人達の話を聞いてもです。
 この人の悪口をいう人がありませんもん。信心のない人でも、はぁ○○さんはやっぱり信心をしよんなはるけん違うと。もう門内の人達から聞きますもん。けども門内の人達がです、もうあの人は、ここに参りよってげなが、こげな人ですよという様な人がありますよ。あげなこつで信心して良かですかち言うてから私の様な人には、(事が入ってくる人達が、)椛目にありますよ。
 これではおかげは受けても、いわゆる末広のおかげに肝心要の要が抜かった様なおかげですから、これでは駄目だと。それは金光様の信心が良かの悪いのと言うてもです。そんなら何々すると五十歩百歩だと私は思うです。御取次を頂いてとこう言うけれども、御取次を頂いておかげを頂いてきたというだけなら。御取次を頂いて、そしてどうぞ改まりの上に本当の信心を分からせて頂く事の為に。
 御取次を頂いておかげを頂いていくという事になってまいりませんとです。いわゆる安心のおかげになってまいりません不思議なんです。これが本当に清まるに従って安心の度合いというものが強うなってくるんですよ。ですからそこんところの信心をお互いが目指さなければです。天地が保証して下さる様なおかげにならんです。天地が保護して下さる、御取次を頂いて頂くおかげといったようなものはいうなら貰い水なんだ。
 けども、天地が保護をして下さるというのはですね、もう湧き出る様なものなんだ、水が。天地の信用を、受けさして頂くためにはです、どうでも教祖の御教え、いわゆる教祖がいわば、ご生活の態度というものを、見習わなければいけないという事です。そのご生活態度の中から、滲み出る様に教えて下さっておるのが、私は御理解であり、御教えであると私は思います。
 それを私共のものにしていくところの精進がなされなくして本当のおかげの頂けるはずはないという事。私は今朝そのお知らせを頂きましてですたい。本当に椛目でこうやっておかげを受けておるけれども、肝心要のところを大事にせずに、こうやっておかげを受けておるという人達も沢山ある。これでは私は相すまん事になってくるとこう思う。始めは誰でもそこから入りますけども。
 それで皆さんがです、椛目に通わせて頂く様になって何年にならせて頂くが、さて自分の肝心要のところがです。どの様に変わらせて頂き、どの様に美しくならせて頂き、どの様に改まらして頂きよるか。そしてどの様な安心の度合いというものが頂けていきよるかという事をです、私はひとつ思うてみなければいけないと思うです。そして自分がです、自分な信心しよるけんで人が信用してくれとるじゃろうという事はです。
 自分が天地の報恩を、どの程度受けておるかという事を、ひとつ思うてみてですたい、自分の信用を計算してみるがいいです。はぁもうああた方辺な、信心しよんなさるけんで違うと、人は口では、言うてくれとるかも知れんけれども、それが、天地の報恩を受けていないとするならです。これはかげで悪口、言われておるとじゃろうと、私はまず思うてみるが良いです。
 そして人間そのものの、本当に私は大事にしていかなければいけない、手元のところを大事にしていかなければいけない。肝心要の自分の心のところを、いよいよ改める事が第一になりという主義になっていく信心になっていかなければいけんと私は思うのです。いかに金光様のご信心を頂いておってもです、お取次を頂いて、只、おかげを頂いておりますというだけならばです。
 これはいわば私共が思う、本当に低級な信心もあったもんだなぁと思うんですけども、それとあんまり変わらないという事です。金光様のお徳が高いから、高いというよりも本当に天地と同根といわれる程のご神徳を頂いておられるから、特に只預かっておかげを受けるのですけども、勿論特に扱わなければいけません。先日、末永さんから手紙がきとります中にですね。
 親先生のお徳でおかげを頂くと、だからその如何にその親先生の徳が高かっても、その徳を現すのは、自分自身も又、徳を現すだけの徳を受ければ駄目だという事にこの頃気付いておりますと言うんです。だからおかげを受けるという事はそんな事じゃない。おかげを受けてその徳を金光大神の私共がお徳を現すという事は、やはり現すだけの徳を受けなければ現せないのです。繰り返し申しますけども、肝心要のところをひとつ、本気で見極めさせて貰うて、そこから末広になっていくところのおかげならです。
 必ず善哉善哉につながると私は思うのです。こんなに有難い事はない、こんなに有難い事はない、こういう有難いおかげを頂いて有難い。こういう有難い信心を頂かしてもろうて有難いというものになってこなければ、こういうおかげを頂いて有難いだけではです、つまらん。こういう有難い信心を頂かしてもろうて有難いという、二つ続けて言えれる様なおかげになってこなければならんと思うですね。
      どうぞ